発酵を手軽に楽しむためのWEBマガジン

甘酒からみる発酵食文化(1)江戸時代から愛される栄養ドリンク「甘酒」の歴史

甘酒からみる発酵食文化

■(1)江戸時代から愛される栄養ドリンク「甘酒」の歴史
(2)それぞれに個性が!米麹甘酒と酒粕甘酒の違いは?
(3)おうちで作ろう!自家製甘酒の作り方&飲み方

発酵について勉強し始めてから、今までよりも発酵食品を意識するようになってきました。

最近は毎日発酵食品を食べる習慣をつけようと、ヨーグルトや納豆、漬物、酢(リンゴ酢とか黒酢とか)をローテーションしています。

いろいろ試してみて、今のところ私の生活にぴったりきているなと感じるのが「甘酒」です!

この甘酒、実はとってもながーい歴史があるってご存知でしたか?

なんと日本人は1300年前から甘酒を飲んでいたんですよ!
今回はその歴史についてご紹介したいと思います。

元々は人間ではなく神様が飲むもの

そもそも甘酒は、毎日飲むものではなくて神様にお供えするものでした。

例えば、埼玉県秩父市の熊野神社では、氏子たちがふんどし姿で大樽に入った甘酒をかけあい、疫病退散や豊作を祈る「甘酒こぼし」が行われています。

この行事は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、実は山賊だったイノシシを、矢で退治したことに感謝した村人が、濁り酒をつくって献上したのが始まりとされています。

京都では、梅宮大社での甘酒祭が有名です。

梅宮大社の祭神で酒造の守護神とされる酒解神(さかとけのかみ)の子である酒解子神(さかとけこのかみ)は大若子神(おおわくこのかみ)と結婚し、小若子神(こわくこのかみ)を産み、天甜酒(あめのうまざけ)を造りました。

この話から、子宝・安産、酒造にご利益があるとされているそうです。

そしてこの「天甜酒(あめのうまざけ)」が、今からおよそ1300年前に書かれた『日本書紀』いう歴史書に、甘酒の起源として記されているのだとか。

ほかにも「醴(こさけ)」が応神天皇に献じられたという記述があるのですが、これも甘酒を指すのだそう。甘酒は、かつて「一夜酒(ひとよざけ)」「醴酒(こざけ)」とも言われて神様に捧げる飲み物とされていました。

ちなみに応神天皇とは「八幡神」として全国各地の八幡宮で祀られています。京都なら、日本三大八幡宮のひとつである石清水八幡宮が有名ですね!

また日本史や古典の教科書でおなじみの『万葉集』に収められた山上憶良の貧窮問答歌にも登場します。

風雑(まじ)り  雨降る夜の 雨雑り  雪降る夜は 術になく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うち啜(すす)ろひて……

(風が吹いたり、雨が降ったり、雪が降ったりして寒くてどうしようもない夜は、塩を舐めながら糟湯酒をすすった)

この「糟湯酒(かすゆざけ)」が、酒粕からできた甘酒であったと言われています。

暑い夏を乗り越える必需品として


甘酒というと冬のイメージが強いのではないでしょうか。

ところが、平安時代には夏に蒸米と米麹に酒を加えた飲み物を作ったことが書かれています。

また、江戸時代には、元禄10(1697)年の『本朝食鑑』という日本の食物について書かれた図鑑のようなものに「甘酒」が登場します。

ほかにも『和漢三才図会』という百科事典に「醴」について、「毎六月朔日」つまり旧暦の6月1日に醴を献上したという記述がみられます。

当時の6月といえば、今では夏。
貧窮問答歌では寒い季節の飲み物だったものが、江戸時代には夏の飲み物として認識されていたようです。

また、ペリーが黒船に乗って浦賀に来航した嘉永6(1853)年に完成した『守貞謾稿』という書物には、江戸・京都・大阪で暑い夏に甘酒を売り歩く様子が描かれています。

[『守貞謾稿』に描かれている甘酒売りの様子/所蔵:国立国会図書館]

京都・大阪では一杯6文、江戸では8文(1文=約12円くらい)で売られていたようで、気軽に年中買うことのできる飲み物だったそうです。

当時は今みたいに冷房も扇風機もありませんから、栄養のあるものを食べて英気を養うのが暑さによる体力低下への対策のひとつだったんでしょうね。

手軽に買えておいしい甘酒は栄養ドリンクとして江戸時代の人々に人気だったようです!

一夜酒 隣の子まで 来たりけり(小林一茶)

甘酒は一晩でできることから、「一夜酒」との呼び名もありました。

小林一茶の俳句からは、外で遊んでいる子供たちに、甘酒を飲ませるために呼びかける様子が目に浮かんできますね。

江戸時代の子供たちも大好きだった甘酒ですが、明治時代も変わらず人気の飲み物だったということが、明治23(1890)や明治26(1893)年の『読売新聞』の記事からわかります。

共に、夏の話題として取り上げられており、貧窮問答歌の時代とは違って夏の風物詩として市民権を得ていたようです。

とはいえ、まだ冷蔵庫などがなく冷蔵保存が難しいため衛生管理が行き届かず、お腹を壊してしまう人もいたようです。

だんだんと甘酒売りの数は減っていく一方、正月にお寺で甘酒がふるまわれるなどして、だんだん夏から冬の風物詩となっていきました。

甘酒の 地獄も近し 箱根山(与謝蕪村)

こちらは与謝蕪村の一句。
箱根街道の難所である「大地獄・小地獄」(現在の大涌谷・小涌谷のこと)を甘酒からわき立つ泡や湯気に見立てて、おいしい甘酒はもうすぐだからがんばれ!と道行く人を励ましたものです。

つらい難所を乗り越えるためのご褒美として思い浮かべるほど甘酒は愛されていたんですね。

私たちと同じように、優しい甘さと麹の風味に癒されていたのでしょうか。